無添加的定点観測

無添加的定点観測(むてんかてきていてんかんそく)とは、とある定点で行われるweb観測ブログ。

名前につく「無添加」について考える

はじめまして「無添加」なぐりこです。

無添加ぐりこ(@mutenkay)です。

これから当ブログを書き残していく上で、まず自身について書いていこうと思います。

まずはよく聞かれる名前の部分「無添加」について。

 

 

そもそもさ「無添加」って?

日常生活において見かけない日はないであろう「無添加」のワード。食品から化粧品までそれは多岐にわたり、むしろこのワードを目安に購入、使用の判断にしている人が多いと思います。それはきっと「無添加」というワードが持つ「なーんか体に良さそう」「肌なんかもう、プルプルっになるんじゃね?」的なポジティブイメージで、私自身もそのワードのもつパワーに惹かれて、いや、むしろそれが目的になってる勢いで購入、使用していました。もうそれは狂信的で、周りの人に

 

「やっぱ無添加!もう神だね。」

無添加無いとだめっしょ。」

無添加つかってないやつ、おりゅぅwwww?」

 

なんて言い放つ始末。部屋中に無添加アイテムが溢れ、むしろそれらを使っている自分に何か意識高めの選民思想的なものを感じていました。

 

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web上に並ぶ「無添加」商品。食品から化粧品まで多岐にわたる。

そんな脳内「無添加至上主義」が崩壊した日

とある時にweb博士「Wikipedia」を定期巡回していた時の事。「無添加」のピックアップワードを発見し、何気に読んでみると

無添加(むてんか、additive-free)とは、特定の物質が使用されていないことを表す表現である。何が無添加であるというような規定はない。第二次世界大戦以降、様々な分野で天然には存在しないような化学合成された物質が大量生産され、その安全性について疑問視する人々がいることからマーケティング上の理由で様々な無添加の商品が生み出されてきた。自然界に存在してこなかった物質も多く、性や発癌性内分泌攪乱化学物質として、人体や自然環境が分解できず蓄積が見られることや、組み合わさったときの複合的な効果について懸念する人々がいる。化学合成された物質を使用する代わりに、安全性が確認されていない天然由来の物質を使用していることも多く、無添加だからといって必ずしも安全性が高いとは限らない。       (Wikipediaより引用)

お気付きであろうか?

 

無添加だからといって必ずしも安全性が高いとは限らない」

 

はい。これね。衝撃。残酷。でもウィキ先生はほぼ間違えない。

 

意外とこの事実を認識してる人は多く、むしろ

「そんなんストリートでは常識っしょw」みたいな反応。みなさん物知りっすね(棒

 その後、さらに掘りすすめると、業界もしくは企業によって禁止添加物以外のものは、自主的なスタンダードは設けているようです。とりあえず安心。

 

でもね、こんなニュース。

www.sankei.com

ざっくりいうと

  • 消費者に対し過剰に添加物への不安を煽っている。
  • 一般的に高い無添加製品を消費者に選ばせ、家計に余計な負担を強いている。
  • 一定の保存料は、食中毒のリスクを下げるなど重要な役割を果たしている。
  • それらを正しく使う事によって本当の食品に対する安心が提供される。

という内容。要するに良いものも悪いものも大事な事は、バランスなんですよね。バランス。

 

入れすぎると有害。

なさ過ぎても有害。

でも、見た目「無いです」って言った方がいいんです。売れる。正義。

 

 別に食の安全について言及するブログでは無い。

前置きが長くなりました。すいません。

これをひとに当てはめた時の「添加物」とは何でしょうか?

社会の常識非常識、立場、もしくはルールであったり、約束や決まり事、もしくは他人に良く見られたいプライドやちっぽけな見栄、人を作る上で必要な添加物もいろいろだと思います。でも、これは時として社会に適応するために必要なもので、なくてはならないものです。人は「完全」無添加では、生きてはいけないのです。美しくかっこよく、そうでありたいけども。

 

そんな矛盾、不安定な定義に成り立つ「無添加」という言葉に愛着と親近感、期待とちょっとの失望を感じて「無添加」ぐりことなりましたとさ。おしまい。

 

 

 

 

 

 

ぶっちゃけ名前付けてからの後付け設定なんですけどね、ほんと。自分でも書いててよくわかんないんですが、よろしくお願いします。